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手描き京友禅にて染め描かれた付下です。
この友禅を眼にして、何かに惹かれかの様に..、関心をもってこの友禅をもう一歩、二歩..、と近付いて見始めるとします。すると、様々なものが、この友禅から伝わって来る様にみえることが出来るかもしれません。「かもしれない」と限定的な表現を致しましたのは、実際に「みえる」のはでなくて、「眼に映って」いても、「感じられない」、または「伝わってこない」場合があるからです。つまり、逆説的には..、「感じられる」「伝わってくる」から「見えて」くるものなのです。
要するに..、この友禅を、時間を要して眼にしていると、様々な感銘や情緒的なものを楽しむことが出来ることがあるのです..。もうひとつ、よく分からない表現に止まってしまったかもしれません。
この友禅ですが、ちょっと関心をもって眼を向けると..、ちょっと色目や糸目の跡などに眼を向けてみると..、要するに、この友禅の細部や部分に眼を向けてみると、ついつい、時間を忘れてしまうことになるかもしれません。
京友禅は装飾の美意識なるものを持っています。その為、施された彩色や加工が表現される柄模様は、手掛けた者や注文主の美意識が反映されているのです。
そもそも、京友禅の着物は、実用に供されると言うよりも、それを着る者の美意識が表現されるものなのです。やはり、装飾の美意識なのです。
極めて高い美意識があれば..、また、求められれば..、手を掛けられるべき京友禅の「質」も、また、強く、高いものを求められるのです。
「眼が肥えている」、あるいは「目利き」と言われる注文主とした工芸品には、時間が止まる程の美意識が施されていることがあるかと思います。着物における友禅だけではなくて、簪、硯箱、調度品に施された螺鈿、蒔絵のごとく、実用に供されると言うそのものが持つ本来的なる目的とは別に..、審美眼を有した者の眼を意識して施された装飾は、「装飾」と言う言葉の響きを越えた、手掛けた者の「息遣い」や「美意識」が伝わってくるのです。
この友禅ですが..、染め描かれているだけ、と言えばそれまでかもしれません。
しかし、染め描かれた「絵」を眼にすると..、また、地色の彩色ひとつに気が囚われると..、手仕事の美しさに心奪われるのです。
染め描かれた「枝」や「流水」を眼にしても、まるで絵画の様な質感を想わせてくれます。また、「松菱」の中に施された精緻な友禅も..、工芸的な空気をも感じさせてくれています。
この手描き友禅の美しさ..、ものの美しさだけではなくて、彩色、友禅の美しさ、または手掛けたものの加工/仕事に対する「こだわり」や「美意識」に惹かれるのは、何故でしょうか?また、時間が止まる程に心奪われるのは、何故でしょうか?
それは..、施された加工/仕事に、極めて高い美意識が込められている..、それも極上の美意識が込められているために、その「もの」を眼にしていると同時に、その「美意識」の深さをも感じているのではないかと思うのです。要するに..、手掛けた「ひと」の空気がその「もの」に宿っているのです。観ていても、何かを見出してしまう。観る時間やその時の加減で、それまで見えなかったものの見えてしまう。それはつくられた「もの」であっても、「ひと」の表情や感情の様な移り変わりがあるのです。
こちらの手描き京友禅の付下。
多くの彩色が施されているものではありませんし、艶やかさや豪華さはありません。
しかし、間違いなく、とても綺麗で、美しい京友禅です。いくら眼にしていても、飽きることなく惹かれる美しさを保っているのです。時間が止まる美しさとは、眼にする者が、心奪われて時間を忘れると言うことだけではありません。この手描き友禅が、これより年を経ても、なお、魅力が褪せることは考え難いのです。それは、この友禅にこめられた美意識が、時代の移り変わりに迎合するものではなくて、いつの時代に眼にしても褪せることはないものだからです。
付下は..、それそのものが「美しい」とされるものであると同時に、それを装い.使う者をも、この手描き友禅の美しさを通じて捉えられるのです。
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