この帯地を眼にしていると、帯に染め付けられた「柄」以上の質感を感じざるを得なくなって来ます。
また、観れば観るほどに「帯地」と言う存在を忘れてしまいそうにもなって来るのです。
「帯地」と言う印象よりも、それとは何か違う印象が飛び込んでくるのです。不思議な感じがします。所詮、裂地でしかないのです。それも織物ではありません。単に染められているだけの事なのです。それも多彩色に彩られた染色でもなければ、精緻な友禅が施されている訳でもない。どちらかというと「無骨」を感じさせる染色で、使われている彩色も僅かでしかないのです。
「帯地」であると言う先入観を忘れてしまえば、この裂地は「絵画」を想わせる存在感を感じてしまうのです。 「絵」として感じた方が、受け入れやすいのです。帯地に施された「柄模様」は、「帯」の存在を前提に染色を施されます。着物に適う染色を予定されるだろうし、また、帯としての表現を想定される筈です。しかし、この裂地には、そのような「何かを予定する」「前提としている」と言うものが感じられないのです。圧倒的な存在感があるのです。染められているのは「大根(?)」or「かぶら(?)」でしょうか?
民芸を想わせるその迫力は、帯として好きであるか? 嫌いであるか? と言う問答を無視する程の迫力があるのです。悪い表現をすればあまりに独善的な染色かもしれません。
やはり「帯地」としてはとんでもないものかもしれません。「何かに適わせる」と言う姿勢が全く感じられない独善的な存在感を保っているのですから。しかし、この「裂地」...、この「絵」の存在感に惹かれることもある筈です。極めて激しい趣向は、ひとを虜にすることもあるのです。
この「裂地」の絵画的な存在感に惹かれるのだと思います。当たり前のように「無骨」で、どこか「民芸」を想わせ、制作者の感性が生々しく伝わってくる様な存在感。帯としての「用」を思うことなく、作品性が漲っている存在感。
この「絵」に惹かれたからこそ「帯」を想うのです。この「絵」の存在感を知って、敢えて「帯」としての「用」を想うからこそ、この「絵」が「帯」となるのです。この「絵」を「帯地」とすることは、簡単な様でもあり、ある種の難しさを思い知らされるかもしれません。「絵」としての存在感だけを表現すれば、着物は無視されるかの様となるかもしれません。着物と帯のバランスを想えば、そのひとのバランス感覚を問われることでしょう。
しかし、この「絵」に惹かれ、「帯地」とすることは、その「ひと」が保つ染織の感性に豊かさをもたらして行く筈です。「絵画的」なるものを帯として使うのですから...。最高の染織Cultrueではないでしょうか?
生地は紬地を使用しています。国画会添田敏子氏の型絵染め。
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