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紬織を、単純に考えてみると、経と緯の糸が無数に交差して行くことで平面をつくり生地となる訳です。これは手織紬に限ることではありません。機械織であっても「生地」をつくることは出来るし、紬織物を織り上げることは出来るのです。複雑な組織織でさえ、手織に頼ることなく、機械織機を使用することで、精緻精巧な織物を織ることは難しい事ではないのです。どんな織物でも...、正確に言えば、どんな組織織であっても機械を使うこと=マニュアルに従いさえすれば、狂いなく織り上げることが出来るのです。
しかし、これは単純に「織る」と言う行為と織り上がったものの精度のお話に留まるのです。あらゆる織物が、マニュアル通りに進めることで織り上げることが難しい事でないにも関わらず、「ひと」の手によって織り上げられる紬織に惹かれる、特有の魅力を感じるのは何故でしょうか?
敢えて言うならば、手織の紬織には、機械織にはない「ひと=制作者」の感覚が宿っているからかもしれません。機械織は、機械が織を進めている間、ひとの眼から離れた状態にある訳です。ひとの手から放れ、ひとの感覚から遠くにある。ただ、計られた織物が時間になると織り上がる訳です。一方、手織は、常に「ひと」の眼と手が関わっているのです。緯糸を経糸に打ち込んで行くことで、織物が織られて行く訳ですが、この打ち込みは一反織り上げるのに何千回と繰り返される訳です。これを「一定の力」で打ち込んで行かなくては、織物としての生地の風合いが変わってしまうのです。織物を織ることにとって、これは至極当たり前のことです。機械織であれば、これが出来なくては機械不良とされる程度のことです。しかし、この打ち込みを繰り返しながら、ひと=制作者は、織物=糸から生地になって行く姿を眼で見て、手で感じているのです。感情を保ったひとならば、美しく織ると言う意識を、常に心に描きながら、糸を打ち込んで行くものです。何千回と繰り返す作業には、その時々の感情や感覚が絡んでいるものなのです。手織紬は、機械織に比べて、曖昧な部分があるかもしれません。しかし、曖昧な部分こそ、他にはない感覚を感じさせる訳なのかも知れません。
こちらに掲載をさせて頂いたのは、ばら(rose)と正藍だけを染料として織り上げられた草木染め紬。この織人は、糸の制作にも自ら手を掛けられます。経糸/緯糸ともに玉糸を混ぜた真綿糸を使用しています。この特有の糸質もまた、この制作者の紬織に対する趣向でもあります。本場結城紬的な柔らかさに加えて、僅かに「芯」の様な生地感覚を載せているのです。
また、織は「あじろ織」。細かなあじろ織とすることで無地織を意識させます。遠目で見ると、無地織に映るかもしれません。しかし、無地織では得られない質感、「ばら」で染められた濃淡の糸が、特有の織の質感を伝えてくれるのです。
また、単純なるあじろ織ではありません。緯に向かって、無秩序の如く走る織の痕。この制作者特有の計らいです。この緯に残る織の痕、まるで織りの斑(むら)が、あじろ織と相俟ってこの織物の景色をつくっているのです。
この斑は、何千回と緯糸を打ち込んで行く最中に、制作者が意図的につくり上げた景色なのです。眼で見て、手で感じながらつくり上げて行くのです。
この紬織は、素材である糸であるその時から、制作者の感情や感覚が絡んでいるのです。
この紬織は、それ程、複雑なる織の構造である訳ではありませんが、この紬織が放っている質感は、この紬織の制作者以外にはつくることが出来ないのです。
この紬織はまるでひとの様であるかも知れませんね。
濃い灰色と深い藍色が絡み合うことで「色」をつくっています。
特に藍が格子をつくっていますが、この格子は、少し距離を置くことであじろ織の中に沈み込んで行き、眼から消えて行きます。また、もう少し離れると、先に掲載をさせて頂いた様に、あじろ織が無地織を想わせる様にもなります。
ばらと藍がつくる草木染めの美しさと織の質感が、この紬織にしかない趣向を強く感じさえてくれるのです。
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