着物を創る事に手を掛ける時、制作者には、その制作者なりの「想い」があるものです。
単純に「着物を創る」と言う言葉は、まるで大海の如く広義な言葉でなのです。
「着物を創る」とは、実は、制作者によって「視点」や「想い」が全く異なっていて、実際に着物の制作に手を掛けている「ひと」の眼は、想いが深ければ深いほどに、その視点は鋭さをともなうもの..、かと思います。
真摯に「制作」と対峙している「ひと=制作者」の眼は、単純で、あまり多くのものを捉えてはいない..、でも、極めて純粋な眼であって、その眼に適うべきもの、手掛けられる「もの」=「きもの」は、その「ひと=制作者」が求めている美意識を保っているものです。
草木と絹の美しさを求める制作者は、その草木と絹の質感に美意識を保っている筈です。極めて細い手描き友禅にこだわる職人は、神経質なほど繊細や柔らかく、且つ、王朝的な美しさを求めるかも知れません。また、「染めもの」と言う視点よりも「絵(絵画的な)」にこだわる、型絵染めの染織家も居られる様です。
こちらに掲載をさせて頂いたのは、芝崎重一氏の草木染め手織紬。
この制作者は、「着る」と言う"用"を想い、糸を視点として、紬織の制作を手掛けて居られます。制作への想いは「最高の着心地」を求め..、機織(はたおり)以前の「糸」の制作までに強い視点を保っているのです。そして、その糸は「赤城の座繰糸」..、機械引きに一切頼らない、手引きの座繰糸。もちろん、「誰が引いても同じ」ではないのです。糸づくりから機織まで、手掛ける芝崎氏の眼に適う、また、言うなれば「呼吸のあう"ひと"」が、糸をひくことで、生まれる座繰糸でなくてはならないのです。
そして、つくられた座繰糸は、天然の草木染料だけに依って染色され美しい発色を保った糸となるのです。この芝崎氏が手掛けた座繰糸に染められた草木の色は、他の紬織にはない、凛とした緊張感を想わせるのです。
こちらの作品は「紬織の無地」として織られたものです。
「無地の紬織」には、実は一切の妥協が許されない難しさがあるかと思います。
織の質感についても、糸遣いや打ち込みが悪ければ、織の表情に「荒(あら」となって眼に留まります。
また、草木の色目も同様です。「無地」の中に「奥行き」なるものを感じられてこそ、草木染め紬織の風合いを想うことが出来るのではないでしょうか?
こちらの紬織は、矢車の無地織の紬。
矢車附子による草木染め紬織は、芝崎重一氏の草木染め以外にも、見掛けることがあります。草木染め紬の染料として使われるのは、比較的染めやすい..、且つ、退色や色の移り変わりが少ない草木であるからかもしれません。
この紬織も..、芝崎重一氏の矢車の紬織も、特有の座繰糸の織の質感と相俟って、無地織の紬織の着物としては、ちょうど良い加減の色となっています。この座繰糸に染められ、紬織となったその質感は、曖昧な感じを思わせます..、良い意味で不均一なのかもしれません。手引きの座繰糸、それも通常の紬糸よりも細く引かれた座繰の糸と天然染料は、何もかも同じ条件や状態ではないのです。それを巧みに..、良質な感じに仕上げて行くことが織人の采配なのです。
この矢車の無地織は、眼にしていて、綺麗なのです。この無地織の色なんですが..、一体どんな色としてお伝えをしたら良いのでしょうか? と言うのは、光の加減で、様々な色を想うことができるのです。この無地織の経糸の色のみ視てみると"金茶"色をしているのですが、緯糸が通って織物となると、よく分からない..、基本、薄い金茶の様な感じなんですが、茶系を想うと違う様な気がしてくるし、また、黄系の空気をも感じるのです。
吉岡幸雄氏の「日本の色」辞典をみても、黄系の「波自色(櫨色はじいろ)」なる色が「かする」様な気がしますが、その色よりもずっと薄い..。
この色目の名称が何であれ、この色は、無地織の着物としては、とても感じの良い色に仕上がっています。暗くもなく、特に鮮やかでもない。落ち着いていて、光の加減により色の印象に移り変わりがあれども、「この色」の印象や品位から外れることはないのです。また、紬織であれど、格調ある帯地を適わせることで、軽い礼装を想うような印象を感じさせてくれます。
芝崎重一氏の紬織は、実用の紬織なのです。ただ、綺麗な色を染める訳でも、織の技術やデザインにこだわるだけではないのです。「着る」と言う"用"を想いながらも、"きもの"としての美しさを保っている。そんな織物なのです。
|