真夏の街に咲いた黄色い花....

仏桑花とはハイビスカスのこと...梅雨が明けて、本格的な真夏となりました。

掲載をさせて頂いた花は、街角に植えられていたハイビスカスです。
名古屋の大通りには必ずと言っていいほど、街路樹や花が植えられています。

街の中は、不健全な程に自動車が排気ガスを出し、秩序なく立ち並ぶビル群からは殺伐とした空気を感じさせています。
都会ならばどこにでもある光景かも知れません。

そうした街の中で、あえて「色」を捜してみると...、ファーストフードとかGSなどの看板が目に付きます。あとはデパートのショウウインドウか街行く人の洋服やバックの色でしょうか?

そのどれも目を惹くことを意識した色であったり、デザインであったりしていて、色そのものには特徴がある訳でも、魅力がある訳ではありません。

街の中で「色」を捜してみると気を惹かれる様な色は少ないものです。

掲載をさせて頂いたハイビスカスですが、そんな街の中では際立った色で咲いていました。
あざやかな黄色で、とても綺麗な色をしていたので写真を撮ってみました。

このハイビスカスの色ですが、しばらく見ていても飽きません。ずっと眼にしていても綺麗と言う印象が失せることはないのです。自然が生み出す色の力と言うものを街の真ん中で思い知らされる想いがしました。

この色に惹かれて写真を撮っていて...、ちょっと「花」と言う意識や先入観を頭の中で"ずらして"みてみると...、"もの"の形として眼に映してみたのです。
すると、色だけではなくて、「形」をも美しいのです。

このハイビスカスですが、真っ正面からみると、まるで文様のような整った綺麗な形をしています。
咲いているハイビスカス、そのすべてが同じような形であって全く同じではない...、大きさや形がすべて違う。
自然がつくりだしたものである以上、全く同じものであることはありえない。
それでも、咲いているハイビスカスのどれも、整っていて、綺麗な形をしているのです。

こうした形を倣うことで、きっと家紋や西陣織の文様がデザインとして生み出されて来たのだと思います。
いやいや..、自然の美しさに対する強い憧れが文様を生み出したのかもしれません。

夏季の装い...、あえて盛夏を楽しむ || 能登上布と宮古上布

能登上布+新里玲子.宮古上布七月も半ばを迎え、京都では祇園祭のお囃子の音が響く季節となりました。暑さの具合も、数週間前とは違う...、日差しは強く、汗を誘うような湿度を伴った暑さが立ち込めています。

そろそろ..、麻のお着物の時季となって参りました。

"夏季の着物と帯のあわせ"として麻織の着物を取り上げてみたいと思います。

麻のお着物は、そもそも、盛夏を対象としたお着物として紹介されることが多いかと思います。
具体的には、七月と八月が麻のお着物の時季となるかと思います。

ただ、お着物に慣れ親しんで居られる方は、もう少し早い時季より、麻のお着物をお召しになっているようです(冠婚葬祭や茶会の様にドレスコードの概要が決められている場合は「ルール」とされるものに準じて下さい)。

麻のお着物が、盛夏に好まれる訳なんですが...、単純に、絹や綿と言った素材と比べて涼しいからです。
本当に涼しいかと言えば...、麻には空気から熱を奪う効果があるようで、麻の反物に触れると"ひんやり"とした質感が確かに伝わってきます。
ですから、着物だけではなく、長襦袢や肌着までも麻素材を求められる程です。


さて、こちらでご紹介をさせて頂いているお着物と帯は...、能登上布のお着物と宮古上布の九寸名古屋帯です。

能登上布は、機械紡績された麻糸を織糸として織られた織物で、機械織で織られた麻織物と比べて麻特有の"しわ"の加減も酷いものでなく、身体に馴染みやすいお着物となります。

こちらで掲載をさせて頂いている能登上布は、コントラストの低い縞の中に「十字絣」が斜めに織り込まれています。
通常、絣織物と聞くと、ちょっと民芸的な印象が強くなるのですが、この十字絣は、あくまでも縞織の中のアクセント程度に止められていて、民芸的な空気感と言うものは感じられません。

私的には...、こうした絣の感覚は、むしろ、縞織の織物を「粋(いき)」なものとせず、垢抜けした雰囲気が感じられるのです。

そして、帯地は宮古上布の染織家.新里玲子氏が製作した九寸名古屋帯です。
ブルー色//水色に見えるのは、糸染めされている染料に藍が使われているためです。
絣文様の雰囲気と彩色の綺麗さは、琉球織物を想わせながらも、染織家特有の作品製作の意識の様なものを感じさます。

要するに、琉球織物にはありそうで...、琉球織物にはないこの制作者特有の雰囲気があるのです。

さて、この着物と帯の"あわせ"のポイントなんですが...、まず、彩色のバランスを考えてみました。
着物と帯、どちらにも明るい彩色のものを選び、色的にも涼感と明るさを伝えるようにしてみました。

麻織のお着物の"あわせ"をご紹介する際に、着物を能登上布とすることは決めていましたが、帯をどうするか? どんな帯と"あわせ"るとどんな印象の装いとなるかを考えてみました。


この宮古上布なんですが...、能登上布と同じく、絣織でありながらちょっと垢抜けたところがあるのです。
南国の織物でありながらも、都会的な雰囲気があるのです。

そして、不思議なものです...、手織の織物には、手織の質感があって、麻には麻特有の涼感があるのです。
また、上布には、通常の麻織にはない上質感があるのです。

宮古上布.新里玲子.藍この能登上布と新里玲子氏が製作した宮古上布の"あわせ"は、明るさや涼感を意識しつつ、麻織物でありながらも特別な上質感が漂う装いを考えてみたものです。
そして、無地織や縞織に止めるのではなくて、絣織と絣織を"重ねる"と言った趣向を楽しんでみました。それも...、民芸的、普段着的な趣向でなくて、垢抜けした都会的な上質感を気取るような趣向です。

麻織物は、それが高価な上布であったとしても、所詮は"礼装"の装いとはなりません。ただ、着物と帯を"趣向"を明確にして"あわせ"ることで、ひとつもふたつも各上の余所行きの装いとなるのです。

これからまだまだ暑い日々が続きます。
温度、湿度は下がることはないと思います。
そんな時季にこそ楽しむ"着物"こそ...、こうした"あわせ"なのではないでしょうか?

Fashion face up

fashionまた、気の迷いと言うものでしょうか...、こんな本を買ってしまいました。

真夜中にネットサーフィンをしていると、ついつい関心あるサイトを何度もみてしまいます。

この本は、世界的に著名なFashion系の写真家の作品が納められた写真集です。

160ページにも及ぶ、大きな書籍で、掲載されている写真のどれも..、とても格好良くて、魅力的な写真ばかりです。

言うなれば、映画のワンシーンをカットしたような...、そんな印象の写真です。
ページを捲るだけでも、写真の魅力を感じることが出来るのですが、時間を掛けて眼にしていると、その写真から物語のようなイメージが感じられて来ます。

こうしたFashion Photographは、Fashionイメージ、ブランドイメージを創り上げるための写真ですから、こうした物語性はあってしるべきかもしれませんが...、

この類の写真は、写真家の能力だけではなくて、被写体となるモデルや美術撮影スタッフ、メイクやスタイリストと言った人たちの能力やセンスが、反映されいるのです。

最先端のFashionセンスと最高の才能が惜しみなく費やされている...、そんな感じです。



danceさて..、写真集の表紙だけではつまらないと思いますので、私的に感じた写真を一枚掲載します。


この写真集ですが、著名な写真家の単純なオムニバス作品集ではなくて、癌患者とその家族に対する寄付行為として出版されたものとのことです。

Soga shouhaku...、ちょっと普通じゃないかも

曾我蕭白先日、三重県立美術館にて開催をされていた曾我蕭白の展覧会に行って参りました。

曾我蕭白(Soga shouhaku)は江戸時代、京で活動をしていた絵師で、その氏素性.画歴については、おおよそのことまでは分かっていても、詳しい事は不明なことが多いようです。
ただ、蕭白の描く画の画風は、一度眼にすると誰もが、好むと好まざるとを問わず、その記憶に残すと思われる程、強烈な印象を放っています。

今回の展覧会のタイトルからもその印象の強烈さを推すことが出来るかと思います。

「蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち」



タイトルは、"曾我蕭白と京の画家たち"とされたいたのですが、出品されていた作品の殆どは、曾我蕭白の作品が多く、また、その作品もちょくちょく書籍で見掛けるような代表作が多く展示されていました。
同時代に、同じ京で仕事をしていた円山応挙や池大雅などの作品も展示されていたのですが、(多少の入れ替えがあったかもしれませんが)私が出掛けた時には、僅かな展示しかありませんでした。

要するに、曾我蕭白と言う絵師を知るなら、かなり見応えある展覧会だったと思います。

ですから...、すべて観終わるまでに随分と時間を要してしまいました。
そして、残った感想としては....、ひと言で言えば、滅多に見られないくらいに「わかりやすい絵師」だと思うのです。

ひたすらに直感的...、独善性に満ちている。

曾我蕭白 ただ…、観ていると、第一印象とその後の印象に違いを感じる。

最初の印象…、ショッキングなまでの生々しい印象...、もしかしたら眼を背けたくなる時さえあるかもしれない狂気的な印象...、その狂気的な印象に耐えながら(?)も、観ていると、時間を追うごとに、妙に惹きつけるものを感じるのです。

惹きつけられて感じる印象は、何処か滑稽さ、人懐こさを伴った穏やかな印象なのです。

この展覧会で怪醜なる言葉を見掛けましたが、それは確かに間違いない表現のひとつかも知れません。

また、蕭白の絵を観ていて、狂気やグロテスクさを感じることがあるかもしれませんが、そもそも、描かれている画が伝えるテーマや物語そのものとその怪醜的印象は繋がっているのです(この繋がりこそが蕭白の超絶技巧的な画の巧さでもあるかと思います)。

でも、蕭白の画の楽しさは、描かれた怪醜の奥底から滲んでくる「蕭白の気配」なのです。

蕭白の画には、描かれた絵そのもののから伝わってくる印象とは別に、描かれたその時の蕭白自身の感情とか気分とかが潜んでいるように思うのです。

絵の中には、華やかに、綺麗に描かれるものとそうでないものがあれば、「そうでないもの」を蕭白は自身の感情とか気分で描き上げているようなのです。
そして、その感情や気分は、気難しいかったり、自虐的だったりするものではないようなのです。

蕭白の作品に描かれている「人」や「獣」たちを観ると、怒りに狂った様や激しい気性に満ちた様はなく、ちょっとした笑みやユーモラスさをみることが出来るのです。

画歴や氏素性よりも、画を観ていれば、伝わってくるものが感じられる。

蕭白自身...、大らかで、豊かさを感じさせる気配があったのかもしれませんね。


*最後に..、掲載画像は、今回の展覧会の図録と展示されていた画のポストカードです。
蕭白の怪醜に満ちた画は、お好みもあるかもしれないので控えました。ご興味ある方は捜してみて下さい。