大変な嵐の日だったですが..、楽しめました。

Refoulement et mensonge昨日は、朝から台風が上陸した大荒れの一日だったんですが、フェリックス・ヴァロットンなる画家の回顧展を観るために、ひとり東京まで出掛けて参りました。

このヴァロットンって画家についても、彼が描いた画についても、全然知らない。
ただ、この画家と展覧会についてのお話を教えて貰ってから、何となく、調べていると..、「わざわざでも観に行ってもいいかもしれない」って閃く様に思い付いて、出掛けた訳です。

フェリックス ヴァロットンは19世紀末から20世紀初頭にパリで活動していたスイス出身の画家。

「冷たい炎の画家−ヴァロットン」−回顧展のタイトルです。
展示されていた作品を、観ていると「冷たい炎」と言う表現も何となく分かります。

このヴァロットンって作家は、どうやら、経済的にも、才能的にも恵まれ、そして、その人生も、他人からすると、そこそこ羨ましい人生を送ったみたいなんです。
ただ、それと同時に、そんな裕福さや幸せに対して、不自由やストレスを、慢性的に抱いていたような感じがするんですね。

展示されている作品(油彩)の多くは人物が描かれている作品だったんですが..、そこに描かれている者は、いつも身なりが良い..、都会の中で、いい暮らしをしているなって感じの連中を描いている。
けれども、一方で、キャンバスに描かれているその者たちは、どこか「安っぽい紳士/淑女」の様に感じられるんです..、愛情とか、知性とか、高貴な雰囲気という感じがないんですね。そして、彼らには笑えない滑稽さみたいなものがあるんです。

le mensongeヴァロットンは、木版画の作品をも数多く残しています。

木版画は「黒」と「白」のコントラストだけで表現された色のないモノクロームの作品..、風刺性を漂わせた物語のワンシーンを思わせます。

冷たい色彩で奥底に響く感情を密かに描く油彩と同じく、木版画は、描かれている情景そのものの他に、いつも「裏のStroyがある」ような空気が漂っている。本当のことは言わない..、「嘘」とか、「アイロニー」などの言葉が似合う感じです。

油彩画にも、木版画にも..、言葉で説明するには複雑すぎる人間関係を、適度な緊張感をもって、巧みに描き上げている感じに思いました。

フェリックス・ヴァロットンの作品を観ていると、もしかしたら、不快感を憶えるかもしれません。また、「どこが良いんだ..」と思われる人も少なくはないかもしれません。

ヴァロットン作品の毒加減は、私には、心地良いものでした。
特に美しい訳でもない、特に高尚な感じでもない、特にインテリジェンスがある訳でもない、でも..、感情とか感性が素直に作品に共感して行くのを実感出来たんです。

パリのグラン・パレ、アムステルダムのゴッホ美術館、東京の三菱一号館美術館...、世界の3都市を巡回する初めての回顧展とのことです。

今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます..。

青いターバンが印象的ですね1月7日月曜日.本日より仕事始めとさせて頂きます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

さて、Blogに掲載をさせて頂いた絵画ですが...、ご存じ"ヨハネス・フェルメール"が描いた最も有名な作品"真珠の耳飾りの少女"です。

新年早々出掛けたのが「マウリッツハイス美術館展」...、レンブラント、ルーベンス、ヤン・ブリューゲルなどの17世紀のオランダ美術を代表する画家の作品が展示されていたのですが、結局は、フェルメールの"真珠の耳飾りの少女"の展覧会みたいなものでした。

私自身、特に、この"真珠の耳飾りの少女"に執心していた訳ではないのですが..、どうやら世界でも指折りの名画と讃えられている作品です。それが日本で観られると言うことなので、とりあえずは...、と言うことでお年始早々出掛けてみたんです。

"真珠の耳飾りの少女"ですが..、噂に違わぬ名画ではありましたね。好きか嫌いか..、訳を問わず..、とても素敵な雰囲気を感じさせてくれた絵画でした。

名画とされる理由は、TV/書籍で解説されている通りだと思います。
私も..、うっすらとなんですが以前にTVで解説されていた内容を憶えていたので、記憶をなぞるように観てみると"なるほど感"を得ることが出来ました。

私個人としては(あまりイカさない視点かもしれませんが)、以前から、この"見返り加減"がとても感じがいいと思っていました。この"見返り加減"は、とても柔らかくて、自然な感じがして(芸術性とかとは別の次元のお話ですが)、ポートレイトのお手本のようにも感じていたんです。

本物の"真珠の耳飾りの少女"は、これまでみてきた写真とは、全く違うくらいに自然な雰囲気で見返っていました。

観ていて想ったんですが..、17世紀は日本では江戸時代の初期になるようですが、その頃のオランダに、この絵画のモデルとなった少女がいて、見返った姿を画家にみせたのだと..。実際には、どうやら、画家が「見返った姿勢」をそのまま描いたのではなくて..、画家のイマジネーションが相俟って描かれた姿であるようです。

でも、"本当に額の中で見返っている"って錯覚するほどに自然な感じがするのです。
これがフェルメールの卓絶した巧さってものかもしれません。

この絵画が描かれておよそ350年間、ずっと見返ったままの姿を保っている訳です。

古い絵画によくある..、時代を感じさせる女性像と言う雰囲気もないし、現代に近い女性の雰囲気とも違う。
背景が黒く描き潰されている分だけ、少女の表情そのものがよく伝わって来るようです。

この少女にとって、ありふれた"見返り"だったのかもしれません。本人の記憶にさえ残らない姿勢だったのかもしれません。でも、画家が捉えた彼女の"ありふれた見返り"は、"真珠の耳飾りの少女"となった..。

巨匠レンブラントやルーベンスにはない空気感の絵画です。
フェルメールの希少性や人気だけだけではない絵画そのものの魅力を感じることが出来ました。

私自身、多分、二度とこの見返った姿を観る機会は巡って来ないと思います。

新年明けて一番のお出掛けとしては、良いものを眼にすることが出来てご機嫌な気分になりました。
よかった...。

ボストン美術館展のお話からややこしいお話へ....

曾我蕭白と雲龍先日、「ボストン美術館展」に行って参りました。

名古屋では「名古屋ボストン美術館、アメリカ/ボストン美術館のボストン美術館の姉妹館で開催されています。
大きな美術館ではないので、前期/後期の2回に分けて開催されています。

東京、国立博物館での開催を終えての開催ですので、既にご覧になった方も多いかと思います。

このボストン美術館展....、「かつて海を渡った幻の国宝が一堂に里帰り」なんてキャッチコピーが付けられているのを見掛けたのですが...、(未だ私は半分しか観ていないのですが)まさにその通りではないかと思います。
何もかも...、素晴らしい。そもそも、何万点と所有しているボストン美術館の日本美術コレクションの中で選りすぐられた作品が、今回展示されているとのことです(本当に日本あれば国宝級...、もしくは重文級ってところかもしれません)。

時間を掛けてゆっくりと観ていても、退屈しない...、好きとか、嫌いと言う前に、勝手にその存在感が飛び込んで来るようなのです。


このボストン美術館展なんですが、数百年にわたる日本絵画を傑作を同時に観ることが出来ると言う点でも、私にとってはとても興味深い内容でもありました。


例えば、室町時代より明治時代までの間、権力者に使えた「ご用絵師」としての狩野派の作品...、そして、宗達や曾我蕭白、伊藤若冲のような画派に属さない絵師の作品...、これらを同時に観ることが出来るのです。

ここ数年、日本絵画を観ていて、狩野派や土佐派のような権力者に使えた画派と画派に属さない絵師たちのイメージが、私の頭の中で、どんな型の境界をしているかは巧く捉えられないのですが、何となく分けられていたんです。

まず、画派に属した絵師の作品なんですが...、どの作品も必ずと言って気品のようなものが強く感じられるのです。隙のないくらいに画の隅々にまで気品の香りがするのです。

(伝)狩野雅楽助 麝香猫(じゃこうねこ)ボストン美術館展に出ている(伝)狩野雅楽助が描いた「麝香猫(じゃこうねこ)」を観ても、やはり、特別な品位が感じられました(この絵師...、ご大家で飼われていた猫をさんざん眼にしていたのかもしれません)。

描かれた麝香猫なんですが、こんな猫はいないだろ..、と言いたくなるくらいに「つくられている」います。可愛らしさとか、猫の画にありがちなユーモラスな空気感はありません。まるで高貴な女性を描くかのような気品と綺麗さを保った猫なのです。

そして、もうひとつ...、ついつい麝香猫に眼が奪われがちなんですが、その横に描かれている「松」にも存在感を感じるのです。この松には、気品だけではなく、その姿と形を眺めていると、霊木を想わせる趣があるのです。


そもそも、御用絵師は、将軍家、大名家、皇家、公家、寺院に使えた絵師達ですから、彼らが描く絵は、屋敷に飾るものであって、そのため、品位や格調、あるいは吉祥なるものは、欠くことの出来ないものだったのかもしれません。

狩野派の描く気品とは、代々受け継がれ、また、育まれて行く画派特有の精神が描き出すものかもしれません。何百年間をも継承され、育まれた精神...、教養や文化、英知が渾然となったインテリジェンスが感じられるのです。





一方...、このボストン美術館展の目玉でもある曾我蕭白の「雲龍図」をみてもお分かりかと思いますが...、画派に属さない絵師の画には、インテリジェンスに勝るものがある様なのです。

ただ、勝るだけではなくて、圧倒することさえもあるかもしれません。


描かれている物語や描かれた意味なるものを問わず、眼にした者の直感に訴え掛けるかのようなセンスが漲っているのです。どこから湧いて来たのか...、何を感じて描いたのか...、想像できないほどのセンスが、超絶的な巧さと相俟っているかのようなのです。

芥子図屏風羅漢宗達派の「芥子図屏風」...、まるで極楽の中を描いたような不思議な画のようです。
金箔の中に浮かぶ芥子の画は、とても綺麗で、美しい画です。
気品も感じられます。
でも、それ以上に、不思議な感じを感じるのです。

赤い芥子の花と金箔のコントラスト、芥子の花の配置...、まるで音階が伝わって来るかのようなんですね。
こうした「感じ」は、受け継がれたものはないし、受け継がれるものでもない...、どうやら絵師特有のセンスなのです。


そして...、もうひとつ。
伊藤若冲の"じじぃ"の画(十六羅漢図)...、羅漢(悟りを開いた高僧)を描いた画とのことですが、私には、どこにでもいる"じじぃ"にしか見えません。

図録の解説には..."羅漢のグロテスクな表情や人体表現のバランスの悪さは、手本となった羅漢図にすでに写し崩れと思われる不明瞭な描写があったためと想像されるが、若冲としては緊張感が欠けた表現が見られることも確かである"と評されていましたが....、
要するに、この画は、若冲の作品としてはマイナスの要因が多い作品ってことなんでしょうか?

私は...、この"じじぃ"の画は、若冲特有の諧謔的なセンスのような気がします。
謀って描いていると思っています。

細見美術館に行くと、若冲が描いた墨画があります。
鶏を描いた墨画の中に、およそ鶏とは想えない表情...、まるでコメディアンのような表情の鶏の作品を観たことがあります。

筆遣いとか、構図のバランスとか...、技術的なことは分かりませんが、この"じじぃ"の"抜けた感じ"は、若冲自身が謀っていたように思うのです。

美しくなく、綺麗でもなく、気品も格調もない...、でも、何となく人間の匂いが感じられる。ゆっくりとした情緒のようなものが立ちこめているように感じられます。
歳を重ね、余裕をかました"じじぃ"の間合いみたいなものがあるんです。

ただ、眼にしていると...、この"じじぃ"の空気感が忍び込んで来るかのようで、実は、緊張感がないようでも、結構、神経に響いて来ます。

御用絵師の画派にはあり得ない画だと思います。

若冲の画をみると、名古屋のボストン美術館展の後期展が、ちょっと楽しみです。
白い鸚鵡を描いた「鸚鵡図」が後期展に出るからです。

「鸚鵡図」からは、"じじぃ"を描いたセンスとは全く違う...、突拍子もないセンスを感じることが出来そうです。




真糊糸目友禅ここで染織に関わるお話なんですが...。

代々受け継がれた画派特有のインテリジェンス。
絵師特有のセンス。

このふたつは、相対している訳ではありませんが、端からすると全く別の視点を保っているように見える筈です。

そして、こうしたことは日本絵画だけではなくて、現在の染織作品にもよく似たことが当て嵌まるのではないと思います。

代々有職織物の制作を手掛ける俵屋は、室町時代からの御用絵師だった狩野派に近い立ち位置ではありませんか...。
有職とは、公家の儀式・祭礼・官職・位階・調度・装束など、それらの知識を指します。俵屋は、有職に関わる織物制作を代々継承する家系です。

要するに、公家、寺社の御用職人としての家系なんですね。

そもそも、西陣織は、有職の織物に始まり、茶人/趣味人/数寄者など美意識の高い愛好家を顧客に保つことで受け継がれて来た織物です。

西陣織は装飾の織物なのです。
西陣織を装束とするにしても、西陣織を飾るとしても、それは品位を伝えるものなくてはならないし、あるいは、荘厳なる美しさに満ちているものでなくてはならなし、またあるいは、格調を備えたものでなくてはならない...、もしかしたら、趣味性に満ちているものでなくてはならない...。
これらは制作者の美意識ではなくて、西陣織を使う者...、西陣織の顧客の美意識なのです。

西陣織の制作者は、何百年もの間、こうした顧客たちの美意識に対する知恵者だったのです。
ここにもインテリジェンスがあるのです。

また、着物において西陣織だけがインテリジェンスを保っていると言う訳ではありません。
礼装を意識する京友禅にもインテリジェンスが感じられる筈です。

友禅が染め描く柄模様...、そこには眼に映る美しさに加えて、柄模様と彩色が伝える故事や意味を伝え、それを衣装とする者の品位や格調を表してくれるものなのです。

掲載させて頂いた友禅は、真糊糸目で染め上げた染帯。
菊の華に「菊/松/桜/梅」、そして、葉には描き疋田が染め描かれている。
緊張感と柔らかさが絶妙なバランス感覚で纏まっている。
インテリジェンスがびっしり詰まっているんです。



福島輝子.型絵染め帯着物...、染織にもインテリジェンスを圧倒するセンスを保った制作者がいます。

作品の美意識は、制作者の感性や創造性から生まれ、育まれるのです。

時に、着物や帯としての柄模様であるとか、彩色であるとかを無視することさえあるかもしないのです。
染織は自身の美意識を昇華させるキャンバスでしかないと捉えているかも知れません。


こちらにご紹介をさせて頂いているのは国画会にて最高齢(になるのかな?)の染織家.福島輝子さんの型絵染めです。
"トルコ桔梗"とのタイトルが付けられています。

物凄いイマジネーションと絵画的なセンスが感じられませんか? もし、この作品が横長の生地に染められていたら...、もし、1mほどの生地に染められていたならば...、きっとタペストリーか、または絵画かと思ってしまうかと思います。
帯地という発想は、通常、少ないかも知れません。


ボストン美術館展のお話から、またややこしいお話となってしまいました。

ただ、こんなお話を書き綴っていて思ったことがあります。

部屋に飾る画を想った時、曾我蕭白や伊藤若冲あたりの強烈な画は、少々つらいかも知れません。
軽い墨画程度なら良いのですが、いつも眼の前にあると疲れそうなんですね(ひとや生き物が描かれた画は、その眼を見ているだけで彼らのセンスや美意識が常に伝わってくるかのようなのです)。

狩野派の画は、部屋を格調高く演出すると言う効果があるように思いますが、ひとを圧倒するセンスと言うものを保たないせいか、特に疲れると言うものでもないような気がします。

また、先に掲載した真糊糸目友禅ですが、これも帯地として捉えるのではなくて、床の間を飾る掛軸としてもいける程の品格があります。
以前、友禅が施されている箇所だけ切り取って額飾にでもしようか..、と言われた方が居られましたが、確かに、そんな品格や趣をも有していると思います。


福島輝子さんのトルコ桔梗をタペストリーにするならば、趣味を凝らしたリビングのような場所が相応しいように思います。
その存在感は、何かを圧倒するものではなくて...、むしろ、染め描かれたトルコ桔梗の豊かなセンスは、まさに花の香りのように部屋の空気に馴染んで行くように思います。

床の間のようなインテリジェンスを象徴する場所では、あのトルコ桔梗は窮屈な思いをするかと思います。

Soga shouhaku...、ちょっと普通じゃないかも

曾我蕭白先日、三重県立美術館にて開催をされていた曾我蕭白の展覧会に行って参りました。

曾我蕭白(Soga shouhaku)は江戸時代、京で活動をしていた絵師で、その氏素性.画歴については、おおよそのことまでは分かっていても、詳しい事は不明なことが多いようです。
ただ、蕭白の描く画の画風は、一度眼にすると誰もが、好むと好まざるとを問わず、その記憶に残すと思われる程、強烈な印象を放っています。

今回の展覧会のタイトルからもその印象の強烈さを推すことが出来るかと思います。

「蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち」



タイトルは、"曾我蕭白と京の画家たち"とされたいたのですが、出品されていた作品の殆どは、曾我蕭白の作品が多く、また、その作品もちょくちょく書籍で見掛けるような代表作が多く展示されていました。
同時代に、同じ京で仕事をしていた円山応挙や池大雅などの作品も展示されていたのですが、(多少の入れ替えがあったかもしれませんが)私が出掛けた時には、僅かな展示しかありませんでした。

要するに、曾我蕭白と言う絵師を知るなら、かなり見応えある展覧会だったと思います。

ですから...、すべて観終わるまでに随分と時間を要してしまいました。
そして、残った感想としては....、ひと言で言えば、滅多に見られないくらいに「わかりやすい絵師」だと思うのです。

ひたすらに直感的...、独善性に満ちている。

曾我蕭白 ただ…、観ていると、第一印象とその後の印象に違いを感じる。

最初の印象…、ショッキングなまでの生々しい印象...、もしかしたら眼を背けたくなる時さえあるかもしれない狂気的な印象...、その狂気的な印象に耐えながら(?)も、観ていると、時間を追うごとに、妙に惹きつけるものを感じるのです。

惹きつけられて感じる印象は、何処か滑稽さ、人懐こさを伴った穏やかな印象なのです。

この展覧会で怪醜なる言葉を見掛けましたが、それは確かに間違いない表現のひとつかも知れません。

また、蕭白の絵を観ていて、狂気やグロテスクさを感じることがあるかもしれませんが、そもそも、描かれている画が伝えるテーマや物語そのものとその怪醜的印象は繋がっているのです(この繋がりこそが蕭白の超絶技巧的な画の巧さでもあるかと思います)。

でも、蕭白の画の楽しさは、描かれた怪醜の奥底から滲んでくる「蕭白の気配」なのです。

蕭白の画には、描かれた絵そのもののから伝わってくる印象とは別に、描かれたその時の蕭白自身の感情とか気分とかが潜んでいるように思うのです。

絵の中には、華やかに、綺麗に描かれるものとそうでないものがあれば、「そうでないもの」を蕭白は自身の感情とか気分で描き上げているようなのです。
そして、その感情や気分は、気難しいかったり、自虐的だったりするものではないようなのです。

蕭白の作品に描かれている「人」や「獣」たちを観ると、怒りに狂った様や激しい気性に満ちた様はなく、ちょっとした笑みやユーモラスさをみることが出来るのです。

画歴や氏素性よりも、画を観ていれば、伝わってくるものが感じられる。

蕭白自身...、大らかで、豊かさを感じさせる気配があったのかもしれませんね。


*最後に..、掲載画像は、今回の展覧会の図録と展示されていた画のポストカードです。
蕭白の怪醜に満ちた画は、お好みもあるかもしれないので控えました。ご興味ある方は捜してみて下さい。

Korin.. 燕子花図屏風と八橋図屏風

燕子花図屏風 八橋図屏風毎年、4月から5月...、燕子の時季となると東京青山の根津美術館では尾形光琳の「燕子花図屏風」が公開されます。

光琳の作品の中でも「燕子花図屏風」は国宝指定されているだけあって極めて秀逸な作品です。ちょっと関心がある方がご覧になれば、その見事さに得心される筈です。

数年前に、初めてこの「燕子花図屏風」をみた時...、作品保存のために、照明が落とされた展示室の中で「燕子花図屏風」は存在感を顕にしていました。
この「燕子花図」は「屏風」として描かれたのです。
絵画ではあるのですが、六曲一双の「屏風」として描かれているために、パノラマ的に眼に映る訳です。

「燕子花図」は至ってシンプルな絵画です。
金屏風の上に、群青と緑青だけで幾つもの燕子花が描かれているだけです。
しかし、仄暗い展示室の中で、じっと眼にしていると。まるでその絵/燕子花図の中に入り込んでしまう様な錯覚さえ憶えそうなのです。

眼の前に..、光琳の描いた燕子花が咲き誇っているような感じです。

光琳の燕子花は幻想的なのかもしれません。
金色(こんじき)を背景とした群青と緑青の燕子花は、「カキツバタ」であって「カキツバタ」ではない..、眼にする者に「カキツバタ」としてみせても、実は「光琳の燕子花」に引き込んで行くようなのです。

「燕子花図屏風」は絵画でから、どの様に観るか..、どの様に感じるか..、その人次第ではあると思いますが..、とてもシンプルな絵画でありながらも、毎年この季節となると多くの人を魅了して、話題にもなる...。
幻想的と感じるのは私だけかもしれませんが、間違いなく魅力的な絵画でもあると思います。


この時季に根津美術館を訪れたのは、もう一度「燕子花図屏風」を観てみたかったこともあるのですが...、今回は、尾形光琳が「燕子花図屏風」を描いてから10年後に描いたとされるメトロポリタン美術館所蔵の「八橋図屏風」も同時に展示されているのです。
「八橋図屏風」は、「燕子花図屏風」と同様に「燕子花」だけを描いた六曲一双の「屏風」ですが、「燕子花図屏風」にはない「八橋」が描かれた作品なのです。
この二つの作品が並び展示されるのは1915年以来との事です。

「八橋図屏風」ですが...、こちらの作品もすこぶる素晴らしい出来ではあると思うのですが、「燕子花図屏風」が幻想的な印象であるのに対して、「八橋」と言う構造物が描かれているだけあって、少々現世を想わせる予感みたいなものが感じられました。
「橋」がとてもダイナミックに描き込まれているです。
「八橋図屏風」は、「燕子花図屏風」と極めて似ているけれども、結構違う絵画なのかもしれません。

「八橋図屏風」は、毎年メトロポリタンから来る訳ではないので、時間を掛けて観ようと思うとNewYorkまで行かなくてはなりません...。

名残惜しかったのですが、また、何時か逢える時を信じて帰って参りました。

参考までに...
根津美術館はこちらです。
「燕子花図屏風」はこちらです。
「八橋図屏風」はこちらです。

勝山健史 織物展..、二葉

勝山健史織物展勝山健史氏の作品展覧会が東京代官山にて開催されます。

**勝山健史 織物展 二葉**

とき :2012年3月14日〜17日
    am:11:00〜pm:19:00
    ※14日は12時開場、17日は18時閉場 

ところ:代官山ヒルサイドテラス E棟ロビー
     東京都渋谷区猿楽町29-8
http://www.hillsideterrace.com/index.html

なお、展示される作品の販売はありません。
写真撮影・模写禁止とのことです。

こんな人...、ちょっといません

せりざわけいすけ先日、愛知県の岡崎市立美術館で芹沢げ霤犬魎僂道欧蠅泙靴拭

この展覧会は、美術館や博物館の収蔵品を集めて展示開催されたものではなくて...、郡上紬を制作している染織家である宗廣陽介氏の個人的なコレクションことでした。

そのコレクションの数と作品の品質を思えば、公共の美術館に相応しい展覧会であり、蒐集家の情熱が伝わって来る素晴らしい内容でした。

私としては、芹沢げ陲寮┐気罰擇靴気鬚△蕕燭瓩憧能できた展覧会でした。

これまで..、もう少し硬くみていたんだと思います。型絵染めとしての作品..、芹沢げ陲箸靴討虜酩..、限定的な視線で捉えていたかもしれません。
帯であるかとか..、着物であるとか...、衝立/屏風であるとか...、"もの"の実用に対して染められた型絵染めとして観たり、芹沢げ陲寮萋観をもって観ていたような気がします。

でも、今回の展示作品は、コレクションの凄まじさのせいもあるのかもしれませんが、眼にする者に窮屈さを感じさせない..、そんな空気感が至極当然のように感じられました。
言葉的には、窮屈さを感じさせないなら、"おおらか"なのかと言えば..、でも、そんな表現とはなんだか違うんです。

そもそも「型絵染め」とか「染め描かれた主題」とかって言う"枠"や"ものさし"が感じられない。

現代の染色家が手掛ける型絵染めの作品と比較すると、芹沢の作品は、とてもとても..、絵画っぽかったり、デザイン性に溢れている。けれども、奇抜ではない..、表現するものを鋭く狙って様にも感じられない..、創作の作為らしき生々しさがまるでないんです。極々自然に染め描かれている...、そんな感じを受けました。
きっと、徹底的に民芸運動に心酔していた上に、才能もあって、何か違うものをみていたような感じがするんです。

李朝の箱が染め描かれた染め帯が展示されていたんですが、その作品を観ていると、そもそも帯を染める気なんかなかったんじゃないかとか、暖簾を観ても、自身のデザインや構図がちょうど良いから暖簾となっているじゃないか..、作品アイテムは、芹沢が表現するツールやメソッドでしかないんじゃないかとも思いました。

作品はどれも、ほぼ日本的とは感じられない。芹沢以前の日本の絵画や工芸品にはみられない性格の"型"や"色"によって作品がつくられている様な気がするんです。たとえ、日本的なテーマを染め描いていたとしても、それまでの日本的な印象は希薄に感じられる。芹沢がみた光景、感じた印象、つくられた"もの"の形...、結局は、芹沢的として言い尽くされてしまうのかなと思いました。

観ていると..、もしかしたら欧米出身の外国人と同じ目線で観ているのかもしれない..、なんて悪戯に感じることさえもありました。

そういえば..、ピカソのお友達だったジョルジュブラックの版画なんかにも、この芹沢的デッサンの作品があったように思います(確か、鳥が飛んでいるようなヤツ)。

芹沢げ1895年生まれ..、生誕を100年越えています(ちなみに、ジョルジュブラックは1982年生まれ)。
時代を問うことなく、凄い方ですね。


島根 東京 岡崎 京都と巡回を予定された展覧会ですが、すでに島根と東京は終わっています。
京都開催は4月7日から6月3日の予定です。

最後に..、Blogに掲載をさせて頂いたのは今回の図録です。
表紙は芹沢げ陲侶神めされた帯地です。"葉っぱ"を単調に図案化しただけの単彩(朱)の型絵なんですが、表紙デザインとしてもちょっとないくらい素敵ではありませんか..、私は好きです。

現代に生きる織

北村武資 作品集現在、東京国立近代美術館にて北村武資氏の作品展覧会が催されています。
会期は、前期2月7日から〜3月11日まで、後期は3月13日から4月15日まで... 前期後期に分けて企画展示されるようです。

これは、昨年、京都近代美術館にて開催された展覧会の東京展と言う位置付けです。

北村武資と言うと、経錦と羅という二つの染織技術にて、二度の人間国宝に認定された染織家..、これは少しばかり着物や染織の知識に関心を持たれている方はご存じかと思います。
経錦と羅..、古代の織物の復元とされる染織なんですが、私たちが眼にする"帯地"は、品質・デザイン性、共に秀逸極まりありません。

ただ、この度、京都と東京にて催されている作品展覧会を観ると...、私が観た京都近代美術館での展示に限るのですが、和服に供する帯地と言う位置付けは全く感じられませんでした。

展示作品は、何十年も前に制作された..、北村武資氏が人間国宝に認定される遙か以前に制作された「織物」から現在に至るまでの染織作品が展示されていました。

展示された作品は、「帯地」と言う概念を突き抜けて純粋に「経錦」と「羅」と言う絹織物で織り上げられた染織作品(芸術作品!)であって、その展示手法も、織=作品の「本質」をどの様に演出するか、と言う計らがなされていた様に感じられ、特に「羅」の展示は、織の精緻さと同時にデザインと彩色の演出が見事なほどに凝らされていました。
(ちなみに、北村武資氏の知人の方と京都近代美術館の作品展示について話をしていたら、この「展示方法」は、展覧会プロデューサーだけではなくて、北村武資氏自身の意向が強く反映されているとの事です)

北村武資氏が手掛ける「経錦」「羅」は、古代織の復元から始まっているとの事ですが、この作品展覧会において眼にする事の出来る作品やその展示は、「古代の織物の復元」を超えて現在の進化し続けている北村武資の創造的織物を実感するものでした。

先の北村武資氏の知人のお話によると、今回の作品展覧会は作品制作の集大成であって、今後美術館における新たな作品展覧会がなされることはない様です。

帯地や西陣織に特に関心がない方でも、デザインや工芸作品に興味があれば、きっと惹き付けられる程の織物を観ることが出来ます。お時間のある方は、是非ともお出掛けになってみて下さい。