現代に生きる織

北村武資 作品集現在、東京国立近代美術館にて北村武資氏の作品展覧会が催されています。
会期は、前期2月7日から〜3月11日まで、後期は3月13日から4月15日まで... 前期後期に分けて企画展示されるようです。

これは、昨年、京都近代美術館にて開催された展覧会の東京展と言う位置付けです。

北村武資と言うと、経錦と羅という二つの染織技術にて、二度の人間国宝に認定された染織家..、これは少しばかり着物や染織の知識に関心を持たれている方はご存じかと思います。
経錦と羅..、古代の織物の復元とされる染織なんですが、私たちが眼にする"帯地"は、品質・デザイン性、共に秀逸極まりありません。

ただ、この度、京都と東京にて催されている作品展覧会を観ると...、私が観た京都近代美術館での展示に限るのですが、和服に供する帯地と言う位置付けは全く感じられませんでした。

展示作品は、何十年も前に制作された..、北村武資氏が人間国宝に認定される遙か以前に制作された「織物」から現在に至るまでの染織作品が展示されていました。

展示された作品は、「帯地」と言う概念を突き抜けて純粋に「経錦」と「羅」と言う絹織物で織り上げられた染織作品(芸術作品!)であって、その展示手法も、織=作品の「本質」をどの様に演出するか、と言う計らがなされていた様に感じられ、特に「羅」の展示は、織の精緻さと同時にデザインと彩色の演出が見事なほどに凝らされていました。
(ちなみに、北村武資氏の知人の方と京都近代美術館の作品展示について話をしていたら、この「展示方法」は、展覧会プロデューサーだけではなくて、北村武資氏自身の意向が強く反映されているとの事です)

北村武資氏が手掛ける「経錦」「羅」は、古代織の復元から始まっているとの事ですが、この作品展覧会において眼にする事の出来る作品やその展示は、「古代の織物の復元」を超えて現在の進化し続けている北村武資の創造的織物を実感するものでした。

先の北村武資氏の知人のお話によると、今回の作品展覧会は作品制作の集大成であって、今後美術館における新たな作品展覧会がなされることはない様です。

帯地や西陣織に特に関心がない方でも、デザインや工芸作品に興味があれば、きっと惹き付けられる程の織物を観ることが出来ます。お時間のある方は、是非ともお出掛けになってみて下さい。

眠り続けているお品..、本場黄八丈

山下八百子 本場黄八丈山下八百子さんの本場黄八丈。

黄色よりも鳶色が多く織り込まれているため、黄八丈と言うよりも鳶八丈と言う印象があります(ただ、どうやら鳶八丈と言う呼称は山下家には伝わっていないようで、あくまでも黄八丈と称されているようです)。濃淡数多の鳶色をした糸を、とても細かい"綾"に織り込んでいます。
これだけ複雑に、多彩な彩色を織り込んで行くと、極端な個性が出てくる事が多いんですが、この綾織は、とても眼に馴染みやすく感じられんです。自然から得られた色と言うものは、襲ねても不思議なほど馴染んで行くと言うお話を仄聞したことがあるのですが、こうした綾織の彩色印象も、すべて八丈島に自生する植物からつくられているため、強い印象を残さないのだと思います。

この"鳶"と言う色なんですが、普段、街の中でも、あまり見掛けない色である上に、この"鳶色"と言う色自体は特別綺麗と思われる色でもない筈なのです。それにもかかわらず、山下家で染められた"鳶色"は綺麗なんです。何百年と"島"に受け継がれた色には、眼にする人の感情に響く何かを保っているのかもしれませんね。

現在、八百子さんの実子である芙美子さんが受け継いでおられます。山下家の黄・鳶・黒の黄八丈に使われる色には変わりはありません。
しかし、芙美子さんが手掛ける織物には、八百子さんの時代にはなかった印象が、時折感じられます。
伝統とは言えども、色はあくまでも"八丈島"から生まれた色であっても、織は"織人"の意識に依存しているからかもしれませんね。


この作品がお店に来たのは、八百子さんが鬼籍に入られる9ヶ月ほど前の事。
以来、ずっと弊店の棚の中に眠っていたのを殆ど忘れておりました(笑い)。

入荷すれば..、瞬く間にお客様の箪笥に収まるお品もあれば、この黄八丈のようにお店の棚の奥底にお客様との出逢いを待ち続けているお品もあるのです。

染めもの..、姿と形

玉縞江戸小紋の玉縞。玉縞は1寸に26本の縞を染めている江戸小紋を指します。反物の巾が1尺とすると、実に260本の縞が染められている事になります。 まさに職人芸です。

着物って言うと..、ちょっと綺麗な彩色をイメージする訳ですが、こうした地味な仕事にも、何百年に亘る愛好者がいたから、現在に至るまでこうした染色が残っている訳です。

江戸小紋は、伊勢型紙を生地に載せて糊付けして単彩に染め上げる。およそ3丈4尺...13mほど延々と、型を付ける作業をするんです。その中には、"無地"と見間違うほどの細かな柄模様を微塵の狂いなく型付けをします。

とても地味な仕事です。"華"や"優雅さ"などは一切感じられない。
仕事も地味だから、染め上った江戸小紋にも"華"も"優雅さ"も"派手さ"も感じられない。

でも、何百年と人を惹き付けてきたこうした"地味"な江戸小紋の魅力は、一体何処にあるんでしょうね?

江戸小紋..、無地に見えるけれども、実は無地ではない。
むしろ、無地と映るほど至極細微な柄模様を嗜好する。質実剛健な手仕事の魅力なのかもしれません。何となく江戸っぽい..、"色気"や"華"はないけれども、偽りのない職人の手仕事が張り詰めている。

そんな江戸小紋は、細かく、精巧で染められていればいるほど美しい..、要するに、無地に近くなればなるほど、凛とした礼装感を伝えてくれる様です。江戸小紋は地味であるけれども、凛とした礼装感を想わせてくれます。
それは、偽りのない職人の手仕事が美しさから生まれた空気感なんです。

ところでちょっとした余談なんですが..、偽りがなかった筈の江戸小紋の手仕事も、何時しか「道具の代替品」を使う職人が多くなって来たようです。何百年と受け継がれて来た江戸小紋ですが、その魅力はこれからどうなって行くのでしょうか?